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太平洋戦争の日々「兵士たちの姿」 保坂まさやす NHKラジオ放送のメモ 日本の兵隊は職業軍人と召集兵に大きく分けられる。 職業軍人は、13歳で陸軍幼年学校に入り18歳でそのまま仕官学校進み、原隊に戻り将校の訓練を受ける30歳前後で陸軍大学校を受ける権利を得る。将校から職業軍人といえる 召集兵は、二十歳になり兵隊検査を受けて入ってくる。 一般の兵士は、一番下が2等兵、2等兵は二十歳を過ぎて、兵隊検査をうけて兵隊になる人で、一番下で戦う兵隊で、扱いは一番下で現場に立たされて苦労する。(2等兵・1等兵・上等兵・兵長) 一番上が元帥、大将、その差はかなり歴然たるものがある。 大将と言うのは、陸軍大学校を出たエリートで、軍の中で出世して最後にたどり着くポストになる、(50代の後半から60代になる)その人たちから見れば、自分たちは指揮する、戦争政策を進める側で、実際に戦うのは下の兵隊たちである。 一般の兵士は徴兵制度で兵隊になる。 赤紙(一銭五厘)で招集された一般の兵士たちは、初日はお客様あつかいされるが、2日目からはガラッと変わって、厳しい命令、リンチ、暴力、軍そのものの一番下の階層に置かれる。 日本の軍隊は他国の軍隊と比べて強いと言われる。 自分と言うのはまったく出せないのが軍隊の特徴、考えてはいけない、とにかく命令に従え、自分と言う物をいかに出さないかと言うのが、兵隊教育であった。 この組織以外に一生懸命やる以外にない仕組みを作った。 兵士たちを縛る倫理 戦陣訓 生きて虜囚の辱めを受けず 死して罪科の汚名をのこすことなかれ 戦陣訓のもっとも有名な一説 捕虜になってはいけない、死ぬまで戦え、玉砕で最後まで戦うということになる。兵士個人の問題だけではなく家族、出身地の協同体も咎を受けるこの条文が心を縛り兵隊の玉砕につながった。兵隊だけではなく一般の人たちにも集団自決につながるようになった。 戦争が始まると軍事が主導になる。 軍事が国民の生活、国の全部が中心になり、軍事に反する事は全部潰される。国家全体が総力戦になり、兵士達に要求される物は国民全部にも要求される。 戦陣訓が兵士の心を縛り一般の国民のこころも縛った 日本の軍隊の特徴 アメリカは、教育訓練時間は階級を守るが、約束の時間が過ぎるとかなり、上官と自由に会話する。日本は24時間フルタイムで階級の差が続く、軍隊の中の自由度は、100パーセントない。 日本は、精神力で戦う、精神力至上主義。アメリカは、精神力では勝てない、物量、軍事力で決着を付ける。 合理的に物事を説明する人と精神論を解く人がいる。 昭和10年代の日本の軍人は精神論を解く人がえらくなっている。 国家の責任者は戦争のときに客観的にものを言わなければいけない、精神論ですむ問題ではない。特に指導者は精神論に傾いて物をいったら客感的事実が見えなくなってくる。東条は、最後はそうなって来た。 軍部は強気のことを言う(大本営発表) 昭和16年12月8日真珠湾攻撃には、勝った勝ったで良かったが、だんだん負けてきても客感的に見る目がなくて、どうしても、強気強気で行くわけになる。昭和19年7月サイパンが、陥落(3万人が玉砕、民間人1万人が死亡した)したが、「何これしきのこと、たいしたこと無い」と「泥水がちょっと引っ掛けられたもんだ」と言った。 東条は軍の中を代弁した。 戦陣訓を含め軍事指導者たちの考えた戦争の進め方は民間人や兵士の命を粗末に扱いすぎている。 戦陣訓は、死を強要された人達が、自分がこういうときには、死ななきゃいけないと死んでいく、家族の人たちも準じる、サイパンの民間人も準じた。兵士たちの命を国家が預かる以上、それに対して国家は責任を持たなきゃいけないのに、どうも、その責任感が希薄であった。 自由に扱っていいのだという形で、戦争を考えたのではないかと思う。 アフターケアーを、ほとんど、日本は考えていなかった。 アメリカにしてもイギリスにしても、かならず部隊の中に教戒師が付いていって、死んだ兵士たちを祈る、日本はそういう役割を果たす人がいなかった。戦争で、兵士たちをどういう風に見ていたか! 軍事指導者が幅広く人間的な発想が欠けていた。
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